Check out the new design

Fassarar Ma'anonin Alqura'ni - Fassara da Japananci, Said Sato * - Teburin Bayani kan wasu Fassarori

XML CSV Excel API
Please review the Terms and Policies

Fassarar Ma'anoni Sura: Al'dour   Aya:

山章

وَٱلطُّورِ
[1]にかけて、
[1] アッラー*がムーサー*に語りかけられた、「山」のこととされる(ムヤッサル523頁参照)。
Tafsiran larabci:
وَكِتَٰبٖ مَّسۡطُورٖ
また、書き記された啓典[1]にかけて、
[1] この「啓典」は、クルアーン*のこととされる(前掲書、同頁参照)。
Tafsiran larabci:
فِي رَقّٖ مَّنشُورٖ
(それは、)広げられた紙片の中。
Tafsiran larabci:
وَٱلۡبَيۡتِ ٱلۡمَعۡمُورِ
また、詣でられる館[1]にかけて、
[1] イブン・カスィールによれば、七層ある天の各層には、地上のカァバ宮殿 *に相当する館があり、この「詣でられる館」は、七層目の天のそれであるという。そこにはイブラーヒーム*が寄りかかっており、毎日新たに七万もの天使*がその周りをタワーフ*するとされる(7:427-428参照)。
Tafsiran larabci:
وَٱلسَّقۡفِ ٱلۡمَرۡفُوعِ
また、掲げられた天井[1]にかけて、
[1] この「天井」は、最下層の天であるとされる(ムヤッサル523頁参照)。
Tafsiran larabci:
وَٱلۡبَحۡرِ ٱلۡمَسۡجُورِ
そして溢れかえる海[1]にかけて(誓う)。
[1] この「溢れかえる」には外にも、「(復活の日*に)点火された」「空っぽになった」「湧(わ)き返った」といった解釈もある。また一説に、この「海」はアッラー*の御座(みくら)の下にある水のこと。復活の日*にそれが地上に降ると、死人が蘇(よみがえ)るのだという(アル=クルトゥビー17:61-62参照)。
Tafsiran larabci:
إِنَّ عَذَابَ رَبِّكَ لَوَٰقِعٞ
(使徒*よ、)実に(不信仰者*たちに対する)あなたの主*の懲罰は、必ずや起こるのだ。
Tafsiran larabci:
مَّا لَهُۥ مِن دَافِعٖ
それを押し戻す者は、誰もいない。
Tafsiran larabci:
يَوۡمَ تَمُورُ ٱلسَّمَآءُ مَوۡرٗا
天が揺れに揺れ動く(、復活の)日。
Tafsiran larabci:
وَتَسِيرُ ٱلۡجِبَالُ سَيۡرٗا
そして、山々が激しく移動する(日)。[1]
[1] 復活の日*の天変地異の様子についいては洞窟章47,ター・ハー章105-107,蟻章88,出来事章5-6,衣を纏(まと)う者章14,真実章13-15,階段章8-9、消息章20,巻き込む章3,衝撃章4-5も参照。
Tafsiran larabci:
فَوَيۡلٞ يَوۡمَئِذٖ لِّلۡمُكَذِّبِينَ
ならば、その日、(アッラー*とその使徒*を否定した)噓つきたちに災いあれ。
Tafsiran larabci:
ٱلَّذِينَ هُمۡ فِي خَوۡضٖ يَلۡعَبُونَ
戯言の中でふざけている者たちに。
Tafsiran larabci:
يَوۡمَ يُدَعُّونَ إِلَىٰ نَارِ جَهَنَّمَ دَعًّا
彼ら(噓つきたち)が、地獄の業火へと荒々しく押しやられる日。
Tafsiran larabci:
هَٰذِهِ ٱلنَّارُ ٱلَّتِي كُنتُم بِهَا تُكَذِّبُونَ
(彼らには、こう言われる。)「これが、あなた方が、嘘呼ばわりしていた業火である。
Tafsiran larabci:
أَفَسِحۡرٌ هَٰذَآ أَمۡ أَنتُمۡ لَا تُبۡصِرُونَ
一体、これ(懲罰)は魔術なのか?それとも、あなた方には見えないのか?
Tafsiran larabci:
ٱصۡلَوۡهَا فَٱصۡبِرُوٓاْ أَوۡ لَا تَصۡبِرُواْ سَوَآءٌ عَلَيۡكُمۡۖ إِنَّمَا تُجۡزَوۡنَ مَا كُنتُمۡ تَعۡمَلُونَ
そこに入って炙られよ。そして(その苦痛を)我慢しても、我慢しなくてもよい、(いずれにせよ、)あなた方には同じこと。あなた方は、自分たちが(現世で)行っていたことに対して、報われるのみなのだから」。
Tafsiran larabci:
إِنَّ ٱلۡمُتَّقِينَ فِي جَنَّٰتٖ وَنَعِيمٖ
実に敬虔な*者たちは、楽園と安楽の中にある。
Tafsiran larabci:
فَٰكِهِينَ بِمَآ ءَاتَىٰهُمۡ رَبُّهُمۡ وَوَقَىٰهُمۡ رَبُّهُمۡ عَذَابَ ٱلۡجَحِيمِ
彼らの主*が、自分たちにお授けになったものに喜々としつつ。彼らの主*は、彼らを火獄の懲罰から守って下さったのである。
Tafsiran larabci:
كُلُواْ وَٱشۡرَبُواْ هَنِيٓـَٔۢا بِمَا كُنتُمۡ تَعۡمَلُونَ
自分たちが(現世で)行っていたこと(の報い)ゆえに、おいしく食べ、飲むのだ。[1]
[1] 天国の民の飲食物については、ヤー・スィーン章57,整列者章45-47,サード章51,詳細にされた章31,金の装飾章73,ムハンマド*章15,慈悲あまねき*お方章52,68,出来事章17-21,真実章23,人間章5-6,14,17-18,21,送られるもの章42,消息章34,量を減らす者たち章25-28も参照。
Tafsiran larabci:
مُتَّكِـِٔينَ عَلَىٰ سُرُرٖ مَّصۡفُوفَةٖۖ وَزَوَّجۡنَٰهُم بِحُورٍ عِينٖ
互いに向かい合いつつ[1]、整列した寝台の上に。われら*は彼らに、麗しい眼の色白の女性たち[2]を連れ添わせる。
[1] アル=ヒジュル章47の訳注を参照。 [2] 「麗しい眼の・・・女性たち」については、煙霧章54の訳注を参照。雌牛章25「純潔な妻」の訳注も参照。
Tafsiran larabci:
وَٱلَّذِينَ ءَامَنُواْ وَٱتَّبَعَتۡهُمۡ ذُرِّيَّتُهُم بِإِيمَٰنٍ أَلۡحَقۡنَا بِهِمۡ ذُرِّيَّتَهُمۡ وَمَآ أَلَتۡنَٰهُم مِّنۡ عَمَلِهِم مِّن شَيۡءٖۚ كُلُّ ٱمۡرِيِٕۭ بِمَا كَسَبَ رَهِينٞ
また、(自分自身が)信仰に入り、その子孫も信仰心と共に彼らに従った者たち、われら*はその子孫を(、その行いが、たとえ彼らの父祖ほどではなくても、天国で)彼らと一緒にしてやり、彼ら(父祖)の行いからは何一つ差し引きしない。全ての者は、自分が稼ぐことによって(解放されるかどうかが決まる、)差し押さえられた者[1]なのだから。
[1] 善行によって救われるか、悪行によって滅ぼされるかのいずれかであることから、自分の行いの抵当(ていとう)として「差し押さえられた者」と表現されている(イブン・ジュザイ2:377参照)。
Tafsiran larabci:
وَأَمۡدَدۡنَٰهُم بِفَٰكِهَةٖ وَلَحۡمٖ مِّمَّا يَشۡتَهُونَ
また、われら*は彼らに、彼らが欲する果実と肉をふんだんに与えた。
Tafsiran larabci:
يَتَنَٰزَعُونَ فِيهَا كَأۡسٗا لَّا لَغۡوٞ فِيهَا وَلَا تَأۡثِيمٞ
彼らはそこで、盃を交わし合う。そこには戯言もなければ、罪深さもない。[1]
[1] 天国の酒*は現世のそれとは違い、頭痛、腹痛、理性の麻痺(まひ)などをもたらすこともなく、それが理由で戯言や下品なことを口にすることもない(イブン・カスィール7:434参照)。
Tafsiran larabci:
۞ وَيَطُوفُ عَلَيۡهِمۡ غِلۡمَانٞ لَّهُمۡ كَأَنَّهُمۡ لُؤۡلُؤٞ مَّكۡنُونٞ
また、彼らの(奉仕)のための少年たちが、彼らの周りを回って歩く。彼らは秘められた真珠のよう。
Tafsiran larabci:
وَأَقۡبَلَ بَعۡضُهُمۡ عَلَىٰ بَعۡضٖ يَتَسَآءَلُونَ
そして彼らは互いに近づき、(自分たちが天国に入った理由について)質問し合う。
Tafsiran larabci:
قَالُوٓاْ إِنَّا كُنَّا قَبۡلُ فِيٓ أَهۡلِنَا مُشۡفِقِينَ
彼らは言う。「本当に私たちは以前(現世にいる時)、家族のもとで、(主*とその懲罰を)怯える者であった。
Tafsiran larabci:
فَمَنَّ ٱللَّهُ عَلَيۡنَا وَوَقَىٰنَا عَذَابَ ٱلسَّمُومِ
それでアッラー*は私たちに(導きを)お恵みになり、私たちを(地獄の)熱風の懲罰から守って下さった。
Tafsiran larabci:
إِنَّا كُنَّا مِن قَبۡلُ نَدۡعُوهُۖ إِنَّهُۥ هُوَ ٱلۡبَرُّ ٱلرَّحِيمُ
本当に私たちは以前、(天国に入り、地獄から救われることを、)かれ(だけ)に祈っていたのだ。実にかれこそは、善きお方、慈愛深い*お方なのだから」。
Tafsiran larabci:
فَذَكِّرۡ فَمَآ أَنتَ بِنِعۡمَتِ رَبِّكَ بِكَاهِنٖ وَلَا مَجۡنُونٍ
ならば(使徒*よ、クルアーン*で)戒めよ。あなたはあなたの主*の恩恵[1]ゆえ、占い師[2]でも憑かれた者[3]でもないのだから。
[1] 預言者*としての使命と、高い知性という「恩恵」のこと(ムヤッサル524頁参照)。 [2] 「占い師(カービン)」とは、不可視の世界*を知っているかのように見せかけ、啓示を受けてもいないのに、未来のことを伝える者のこと(イブン・アル=ジャウズィー8:53参照)。 [3] 「憑かれた者」については、アル=ヒジュル章6の訳注を参照。
Tafsiran larabci:
أَمۡ يَقُولُونَ شَاعِرٞ نَّتَرَبَّصُ بِهِۦ رَيۡبَ ٱلۡمَنُونِ
いや、彼ら(シルク*の徒)は言うのか?「(ムハンマド*は)詩人である。私たちは彼に、死の到来を待ち望んでいるのだ」。
Tafsiran larabci:
قُلۡ تَرَبَّصُواْ فَإِنِّي مَعَكُم مِّنَ ٱلۡمُتَرَبِّصِينَ
(使徒*よ、)言ってやれ。「(それを)待ち望んでいるがよい。本当に私も、あなた方と共に待ち望む者[1]なのだから」。
[1] 彼らへの懲罰を、「待ち望む者」の意(ムヤッサル524頁参照)。
Tafsiran larabci:
أَمۡ تَأۡمُرُهُمۡ أَحۡلَٰمُهُم بِهَٰذَآۚ أَمۡ هُمۡ قَوۡمٞ طَاغُونَ
いや、彼らの知性が、彼らにこれを命じているのか?いや、彼らは放埓な民である。[1]
[1] 彼らは預言者*を「占い師」「憑かれた者」「詩人」などと形容したが、それらは互いに矛盾(むじゅん)する言葉である(ムヤッサル525頁参照)。しかしクライシュ族*は、自分たちが知性と理性の持ち主であると自負(じふ)していた(アブー・ハイヤーン8:151参照)。
Tafsiran larabci:
أَمۡ يَقُولُونَ تَقَوَّلَهُۥۚ بَل لَّا يُؤۡمِنُونَ
いや、彼ら(シルク*の徒)は言うのか?「彼(ムハンマド*)が、それ(クルアーン*)を仕立て上げたのだ[1]」。いや、彼らは信じていない。
[1] 家畜章105とその訳注も参照。
Tafsiran larabci:
فَلۡيَأۡتُواْ بِحَدِيثٖ مِّثۡلِهِۦٓ إِن كَانُواْ صَٰدِقِينَ
ならば彼らに、それ(クルアーン*)と同様の話を持って来させよ。もし、彼らが本当のことを言っているのならば。[1]
[1] 雌牛章23の訳注も参照。
Tafsiran larabci:
أَمۡ خُلِقُواْ مِنۡ غَيۡرِ شَيۡءٍ أَمۡ هُمُ ٱلۡخَٰلِقُونَ
いや、彼らはいかなるものもなしに[1]、創られたというのか?それとも彼らが創造者なのか?
[1] これには、「創造者もなしに」「(命じられることも、禁じられることもない)無生物のように、父も母もなしに」「無意味に」といった解釈がある(アッ=シャウカーニー5:133参照)。
Tafsiran larabci:
أَمۡ خَلَقُواْ ٱلسَّمَٰوَٰتِ وَٱلۡأَرۡضَۚ بَل لَّا يُوقِنُونَ
それとも、彼らが諸天と大地を創ったのだと?いや、彼らは(アッラー*の懲罰を)確信していない。
Tafsiran larabci:
أَمۡ عِندَهُمۡ خَزَآئِنُ رَبِّكَ أَمۡ هُمُ ٱلۡمُصَۜيۡطِرُونَ
いや、彼らのもとには、あなたの主*の宝庫[1]があ(り、それを自由にすることが出来)るのか?それとも、彼らが(アッラー*の創造物に対する)制圧者だとも?
[1] この「宝庫」の解釈には、「雨や糧」「預言者*性」といった説がある(アル=バガウィー4:295参照)。
Tafsiran larabci:
أَمۡ لَهُمۡ سُلَّمٞ يَسۡتَمِعُونَ فِيهِۖ فَلۡيَأۡتِ مُسۡتَمِعُهُم بِسُلۡطَٰنٖ مُّبِينٍ
それとも彼らには、(彼らの主張を裏づける啓示を)開くことの出来る(、天にかける)梯子があるというのか?ならば、聞いている(と主張する)者に、明らかな根拠を持って来させるがよい。
Tafsiran larabci:
أَمۡ لَهُ ٱلۡبَنَٰتُ وَلَكُمُ ٱلۡبَنُونَ
それとも、かれ(アッラー*)には娘があり、あなた方には息子があるとでも?[1]
[1] このアーヤ*の意味については、蜜蜂章57-59とその訳注を参照。
Tafsiran larabci:
أَمۡ تَسۡـَٔلُهُمۡ أَجۡرٗا فَهُم مِّن مَّغۡرَمٖ مُّثۡقَلُونَ
いや(、使徒*よ)、あなたが彼らに見返りを要求し[1]、それで彼らは負債ゆえの重荷を背負わされ(、あなたの呼びかけを拒否する者だというのか?
[1] この「見返りの要求」については、家畜章90の訳注を参照。
Tafsiran larabci:
أَمۡ عِندَهُمُ ٱلۡغَيۡبُ فَهُمۡ يَكۡتُبُونَ
それとも、彼らのもとには不可視の世界*(の知識)があり[1]、それで彼らが(そこから、人々のために)書き記している[2]とでも?
[1] これは彼らが、「復活の日*を否定したこと」、あるいは彼らがアーヤ*31の言葉を受けて、「預言者*ムハンマド*の方が、自分たちより先に死ぬ」と主張したことを指している、とされる(アル=バガウィー4:295参照)。 [2] あるいは、「判断している」という意味(アル=クルトゥビー17:76参照)。
Tafsiran larabci:
أَمۡ يُرِيدُونَ كَيۡدٗاۖ فَٱلَّذِينَ كَفَرُواْ هُمُ ٱلۡمَكِيدُونَ
いや、彼らは(信仰者たちに)策略を望んでいる。そして不信仰に陥った者*たちこそが、策略されている身なのだ。[1]
[1] 彼らの策略に対する応報が、「策略」と表現されている(アブー・ハイヤーン 8:153参照)。この表現法については、雌牛章15の訳注も参照。
Tafsiran larabci:
أَمۡ لَهُمۡ إِلَٰهٌ غَيۡرُ ٱللَّهِۚ سُبۡحَٰنَ ٱللَّهِ عَمَّا يُشۡرِكُونَ
それとも彼らには、アッラー*以外の神[1]があるといのか?彼らがシルク*を犯しているものから(無縁な)、アッラー*に称え*あれ。
[1] 「神」に関しては、雌牛章133の訳注を参照。
Tafsiran larabci:
وَإِن يَرَوۡاْ كِسۡفٗا مِّنَ ٱلسَّمَآءِ سَاقِطٗا يَقُولُواْ سَحَابٞ مَّرۡكُومٞ
もし彼らが、天の破片が落下して来るのを目にしても、(不信仰をやめることなく、)「(これは)積み重なった雲だ」などと言ったであろう。[1]
[1] 一説に、このアーヤ*は夜の旅章92や詩人たち章187にあるような、不信仰者*たちの挑発の言葉に対して下った(アル=クルトゥビー17:77参照)。
Tafsiran larabci:
فَذَرۡهُمۡ حَتَّىٰ يُلَٰقُواْ يَوۡمَهُمُ ٱلَّذِي فِيهِ يُصۡعَقُونَ
ならば(使徒*よ)、彼らが卒倒するその日[1]に遭遇するまで、彼らを放っておくがよい。
[1] 「その日」の解釈には、「彼らが死ぬ日」「バドルの戦い*の日」「最初に角笛に吹き込まれる日(家畜章73の訳注も参照)」「復活の日*」といった諸説がある(前掲書、同頁参照)。
Tafsiran larabci:
يَوۡمَ لَا يُغۡنِي عَنۡهُمۡ كَيۡدُهُمۡ شَيۡـٔٗا وَلَا هُمۡ يُنصَرُونَ
彼らの策略が少しも自分たちに役立つことがなく、彼らが(アッラー*の懲罰から)助けられることもない日に。
Tafsiran larabci:
وَإِنَّ لِلَّذِينَ ظَلَمُواْ عَذَابٗا دُونَ ذَٰلِكَ وَلَٰكِنَّ أَكۡثَرَهُمۡ لَا يَعۡلَمُونَ
本当に不正*を働いた者たちには、(その目の前にも、)その他の懲罰がある。しかし彼らの大半は、(そのことを)知らないのだ。
Tafsiran larabci:
وَٱصۡبِرۡ لِحُكۡمِ رَبِّكَ فَإِنَّكَ بِأَعۡيُنِنَاۖ وَسَبِّحۡ بِحَمۡدِ رَبِّكَ حِينَ تَقُومُ
(使徒*よ、)あなたの主*のお決めになったことゆえに、忍耐*せよ。本当にあなたは、われら*の眼差しのもとにあるのだから[1]。そして立つ時[2]に、あなたの主*の称賛*と共に(かれを)称え*よ。
[1] 「眼差しのもと」については、ター・ハー章39とその訳注も参照。 [2] この「立つ時」の解釈には、「座っている姿勢から立つ時」「眠りから起きた時」「礼拝に立つ時」といった説がある(アル=クルトゥビー17:78-80参照)。
Tafsiran larabci:
وَمِنَ ٱلَّيۡلِ فَسَبِّحۡهُ وَإِدۡبَٰرَ ٱلنُّجُومِ
また、夜にもかれを称え*、星々が去った時[1]にも(、そうするのだ)。
[1] これはファジュル*の礼拝、またはファジュル*の義務の礼拝に先立つ任意の礼拝、あるいはその両方のことを指すとされる(アル=カースィミー15:5552参照)。
Tafsiran larabci:
 
Fassarar Ma'anoni Sura: Al'dour
Teburin Jerin Sunayen Surori Lambar shafi
 
Fassarar Ma'anonin Alqura'ni - Fassara da Japananci, Said Sato - Teburin Bayani kan wasu Fassarori

Ya fassara ta Sa'id Sato. An sabunta ta ƙarƙashin kulawar Cibiyar Ruwad Tarjamah, an bada damar karanta fassarar ta asali dan manufar bayyanar da ra'ayi da daidaitata da kuma ci gaba mai dorewa.

Rufewa