Prijevod značenja časnog Kur'ana - الترجمة اليابانية - سعيد ساتو * - Sadržaj prijevodā

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Prijevod značenja Sura: Sura el-Mu'minun   Ajet:

信者章

قَدۡ أَفۡلَحَ ٱلۡمُؤۡمِنُونَ
信仰者たちは、確かに成功する。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ٱلَّذِينَ هُمۡ فِي صَلَاتِهِمۡ خَٰشِعُونَ
(彼らは、)その礼拝において、恭順[1]な者たち。
[1] 「恭順」については、雌牛章45の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُمۡ عَنِ ٱللَّغۡوِ مُعۡرِضُونَ
また戯言[1]から背を向ける者たち。
[1] 「戯言」とは、そこにいかなる善も認められないような言動のこと(ムヤッサル342頁参照)。禁じられた物事であれば尚更(なおさら)である(アッ=サァディー547頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُمۡ لِلزَّكَوٰةِ فَٰعِلُونَ
また浄財*を実行する[1]者たち。
[1] 物質的な浄財*だけでなく、自分自身を悪い品性や悪行から清めることも含むとされている(前掲書、同頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُمۡ لِفُرُوجِهِمۡ حَٰفِظُونَ
また、自らの陰部を(禁じられた物事[1]から)守る者たち。
[1] この「禁じられた物事」については、御光章30の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِلَّا عَلَىٰٓ أَزۡوَٰجِهِمۡ أَوۡ مَا مَلَكَتۡ أَيۡمَٰنُهُمۡ فَإِنَّهُمۡ غَيۡرُ مَلُومِينَ
但し、自分の妻たち、あるいは自分の右手が所有するもの(奴隷*女性)は別で、本当に彼ら(合法な物事だけを行う者たち)は咎められるものではない。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَمَنِ ٱبۡتَغَىٰ وَرَآءَ ذَٰلِكَ فَأُوْلَٰٓئِكَ هُمُ ٱلۡعَادُونَ
そして誰であろうとそれ以上を欲する者、それらの者たちこそは(アッラー*の法の)違反者なのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُمۡ لِأَمَٰنَٰتِهِمۡ وَعَهۡدِهِمۡ رَٰعُونَ
また、自らの信託と、自分の契約を厳守する[1]者たち。
[1] アッラー*がしもべに義務づけた信託と、財産や秘密に関することなど、人間同士の信託を守ること。また、契約についても同様(アッ=サァディー547頁参照)。雌牛章27の訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُمۡ عَلَىٰ صَلَوَٰتِهِمۡ يُحَافِظُونَ
また、自分自身の礼拝を固守する者たち。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أُوْلَٰٓئِكَ هُمُ ٱلۡوَٰرِثُونَ
それらの者たちこそは、(天国の)相続人[1]である。
[1] 「相続人」、およびアーヤ*11の「引き継ぐ」という表現については、マルヤム*章63の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ٱلَّذِينَ يَرِثُونَ ٱلۡفِرۡدَوۡسَ هُمۡ فِيهَا خَٰلِدُونَ
(彼らは、)フィルダウス[1]を引き継ぐ者たち。彼らはそこに、永遠に留まる者たちとなる。
[1] 「フィルダウス」とは、天国で最も高く、最も中心部に位置する楽園のこと。その真上には、アッラーの御座(みくら)がある(アル=ブハーリー2790参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَقَدۡ خَلَقۡنَا ٱلۡإِنسَٰنَ مِن سُلَٰلَةٖ مِّن طِينٖ
われら*は確かに人間(の父祖アーダム*)を、泥土より抽出した物から創った[1]
[1] アル=ヒジュル章26の訳注も参照。人間の創造の変遷(へんせん)については、巡礼章5も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ جَعَلۡنَٰهُ نُطۡفَةٗ فِي قَرَارٖ مَّكِينٖ
それから、われら*はそれ(人間)を精液の一滴として、しっかりとした定着場[1]に設えた。
[1] 「しっかりとした定着場」とは、子宮のこと(アッ=サァディー548頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ خَلَقۡنَا ٱلنُّطۡفَةَ عَلَقَةٗ فَخَلَقۡنَا ٱلۡعَلَقَةَ مُضۡغَةٗ فَخَلَقۡنَا ٱلۡمُضۡغَةَ عِظَٰمٗا فَكَسَوۡنَا ٱلۡعِظَٰمَ لَحۡمٗا ثُمَّ أَنشَأۡنَٰهُ خَلۡقًا ءَاخَرَۚ فَتَبَارَكَ ٱللَّهُ أَحۡسَنُ ٱلۡخَٰلِقِينَ
それから、その一滴の精液から一塊の凝血を創り、その一塊の凝血から一個の肉塊を創り、その一個の肉塊から骨を創り、そしてその骨に肉をかぶせ、それから(そこに魂を吹き込み、)別の創造(物)として、それを創り上げた。最善の創造者であられるアッラー*は、祝福に溢れたお方よ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ إِنَّكُم بَعۡدَ ذَٰلِكَ لَمَيِّتُونَ
それから本当にあなた方は、その後、まさに死に行く身なのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ إِنَّكُمۡ يَوۡمَ ٱلۡقِيَٰمَةِ تُبۡعَثُونَ
それから本当に、あなた方は復活の日*、蘇らされるのである。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَقَدۡ خَلَقۡنَا فَوۡقَكُمۡ سَبۡعَ طَرَآئِقَ وَمَا كُنَّا عَنِ ٱلۡخَلۡقِ غَٰفِلِينَ
われら*は確かに、あなた方の上に七つの重なったもの(天)を創り上げた[1]。そしてわれら*はもとより、創造に関して迂闊だったわけではない[2]
[1] ヌーフ*章15も参照。 [2] つまり天が崩れ落ちることで、人々が滅んでしまわないようにすることにおいて、迂闊ではあられない。あるいは、被造物の福利と保護において、迂闊ではあられない(アル=クルトゥビー12:111参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَأَنزَلۡنَا مِنَ ٱلسَّمَآءِ مَآءَۢ بِقَدَرٖ فَأَسۡكَنَّٰهُ فِي ٱلۡأَرۡضِۖ وَإِنَّا عَلَىٰ ذَهَابِۭ بِهِۦ لَقَٰدِرُونَ
また、われら*は天から(雨)水を適度に下し、それを大地に留まらせた。そして実にわれら*は、それを消し去ってしまうことも、確実に出来るのである。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَأَنشَأۡنَا لَكُم بِهِۦ جَنَّٰتٖ مِّن نَّخِيلٖ وَأَعۡنَٰبٖ لَّكُمۡ فِيهَا فَوَٰكِهُ كَثِيرَةٞ وَمِنۡهَا تَأۡكُلُونَ
そしてわれら*はそれ(水)によって、あなた方のためにナツメヤシや葡萄の園を設えた。そこには、あなた方のための豊富な果実があり、あなた方はそこから食べるのである。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَشَجَرَةٗ تَخۡرُجُ مِن طُورِ سَيۡنَآءَ تَنۢبُتُ بِٱلدُّهۡنِ وَصِبۡغٖ لِّلۡأٓكِلِينَ
また、シナイ山から生える木[1]を(設えた)。それは油と、(それを)食する者たちへの味付け(をもたらす果実)と共に、生育する。
[1] この「木」は、オリーブの木(ムヤッサル343頁参照)。シナイ山、と限定されているのは、それがシャーム地方(現在のシリア、パレスチナ周辺地域)特産であるため (アッ=サァディー549頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَإِنَّ لَكُمۡ فِي ٱلۡأَنۡعَٰمِ لَعِبۡرَةٗۖ نُّسۡقِيكُم مِّمَّا فِي بُطُونِهَا وَلَكُمۡ فِيهَا مَنَٰفِعُ كَثِيرَةٞ وَمِنۡهَا تَأۡكُلُونَ
また本当に家畜[1]には、あなた方に対しての教示がある。われら*はその腹部にあるもの[2]から、あなた方に飲ませる。そこ(家畜)にはあなた方にとっての多くの利益[3]があり、またあなた方は、そこから食する。
[1] 「家畜」については、食卓章1「家畜獣」の訳注を参照。 [2] つまり、乳のこと(ムヤッサル343頁参照) 。蜜蜂章66も参照。 [3] 具体的な利益の例については、蜜蜂章5-8、80も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَعَلَيۡهَا وَعَلَى ٱلۡفُلۡكِ تُحۡمَلُونَ
そしてあなた方は、それ(家畜)と、船の上に(載って)運ばれる。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَقَدۡ أَرۡسَلۡنَا نُوحًا إِلَىٰ قَوۡمِهِۦ فَقَالَ يَٰقَوۡمِ ٱعۡبُدُواْ ٱللَّهَ مَا لَكُم مِّنۡ إِلَٰهٍ غَيۡرُهُۥٓۚ أَفَلَا تَتَّقُونَ
われら*は確かに、ヌーフ*をその民へと遣わした。そして彼は言った。「我が民よ、アッラー*を崇拝*せよ。あなた方には、かれの外に、崇拝*すべきいかなるものもないのだから。一体、あなた方は(アッラー*に逆らい、)畏れ*ないのか?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَقَالَ ٱلۡمَلَؤُاْ ٱلَّذِينَ كَفَرُواْ مِن قَوۡمِهِۦ مَا هَٰذَآ إِلَّا بَشَرٞ مِّثۡلُكُمۡ يُرِيدُ أَن يَتَفَضَّلَ عَلَيۡكُمۡ وَلَوۡ شَآءَ ٱللَّهُ لَأَنزَلَ مَلَٰٓئِكَةٗ مَّا سَمِعۡنَا بِهَٰذَا فِيٓ ءَابَآئِنَا ٱلۡأَوَّلِينَ
彼の民の内の不信仰な有力者らは(人々に向かって、)言った。「これは(預言者*を主張することによって、)あなた方に優越しようとする、あなた方同様の一人の人間に過ぎない。そして、もしアッラー*が(使徒を下すことを)お望みならば、天使*たちを下したであろう[1]。私たちはこのようなことを、私たちの昔のご先祖様(の時代)において、聞いたことはなかったぞ。
[1] 家畜章111、アル=ヒジュル章14-15、夜の旅章93も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنۡ هُوَ إِلَّا رَجُلُۢ بِهِۦ جِنَّةٞ فَتَرَبَّصُواْ بِهِۦ حَتَّىٰ حِينٖ
彼は憑き物がついた、一人の男に過ぎない[1]。ならば(彼が正気を取り戻すか、死ぬかするまで)、しばらく彼のことを見守っておけ」。
[1] アル=ヒジュラ章6「憑かれた者」に関する訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالَ رَبِّ ٱنصُرۡنِي بِمَا كَذَّبُونِ
彼(ヌーフ*)は、申し上げた。「我が主*よ、彼らが私を嘘つき呼ばわりしますゆえ、私をお助け下さい」。[1]
[1] 月章10、ヌーフ*章26-27も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَأَوۡحَيۡنَآ إِلَيۡهِ أَنِ ٱصۡنَعِ ٱلۡفُلۡكَ بِأَعۡيُنِنَا وَوَحۡيِنَا فَإِذَا جَآءَ أَمۡرُنَا وَفَارَ ٱلتَّنُّورُ فَٱسۡلُكۡ فِيهَا مِن كُلّٖ زَوۡجَيۡنِ ٱثۡنَيۡنِ وَأَهۡلَكَ إِلَّا مَن سَبَقَ عَلَيۡهِ ٱلۡقَوۡلُ مِنۡهُمۡۖ وَلَا تُخَٰطِبۡنِي فِي ٱلَّذِينَ ظَلَمُوٓاْ إِنَّهُم مُّغۡرَقُونَ
それでわれら*は、彼に(こう)啓示した。「われら*の眼差しのもと[1]、われら*の啓示によって[2]、船を造れ。そしてわれら*の命令が到来し、焼き窯が噴き出した[3]ら、全て(の生き物)から一つがいずつと、あなたの家族を、そこに乗り込ませよ。但し、彼らの内、既に(懲罰の)言葉が定められていた者[4]は別である。そして、不正*を働いていた者たちのこと[5]で、(その救いを求めて)私に話しかけるのではない。本当に彼らは、溺れ死ぬことになる者たちなのだから。
[1] 「眼差しのもと」については、ター・ハー章39とその訳注を参照。 [2] 「われら*の啓示によって」については、フード*章37の訳注を参照。 [3] 「焼き窯が噴き出した」については、フード*章40の訳注を参照。 [4] 「既に(懲罰の)言葉が定められた者」については、フード*章40の訳注を参照。 [5] この具体的内容については、フード*章37の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَإِذَا ٱسۡتَوَيۡتَ أَنتَ وَمَن مَّعَكَ عَلَى ٱلۡفُلۡكِ فَقُلِ ٱلۡحَمۡدُ لِلَّهِ ٱلَّذِي نَجَّىٰنَا مِنَ ٱلۡقَوۡمِ ٱلظَّٰلِمِينَ
それで、あなたと、あなたと共にいる者たちが船に(無事)乗った[1]なら、(こう)言うのだ。『私たちを不正*者である民から救って下さったアッラー*に、全ての称賛*あれ』」。
[1] 彼らが船に乗ってからの出来事は、フード*章42-48に詳しい。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَقُل رَّبِّ أَنزِلۡنِي مُنزَلٗا مُّبَارَكٗا وَأَنتَ خَيۡرُ ٱلۡمُنزِلِينَ
また、言うのだ。「我が主*よ、私を祝福多き場所へと到着させて下さい。あなたは、最善の場に到着させて下さるお方です」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنَّ فِي ذَٰلِكَ لَأٓيَٰتٖ وَإِن كُنَّا لَمُبۡتَلِينَ
本当にその中にはまさしく、御徴[1]がある。そしてわれら*は本当に、試練を課す者[2]であった。
[1] この「御徴」は、アッラーの唯一性*、ヌーフ*の正直さ、その民の偽(いつわ)り、及びアッラー*のしもべたちに対するご慈悲を示す、証拠のこと(アッ=サァディー551頁参照)。 [2] つまり、民を滅ぼす前に使徒*を遣わすことで、その民を試す者ということ(ムヤッサル344頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ أَنشَأۡنَا مِنۢ بَعۡدِهِمۡ قَرۡنًا ءَاخَرِينَ
それからわれら*は、彼ら(ヌーフ*の民)の後、別の世代[1]を設けた。
[1] この「別の世代」とは、アード*のことを指すとされる。また一説には、サムード*のこと(イブン・カスィール5:474参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَأَرۡسَلۡنَا فِيهِمۡ رَسُولٗا مِّنۡهُمۡ أَنِ ٱعۡبُدُواْ ٱللَّهَ مَا لَكُم مِّنۡ إِلَٰهٍ غَيۡرُهُۥٓۚ أَفَلَا تَتَّقُونَ
それで、われら*は彼らに、彼ら自身の内から一人の使徒*を遣わした。(彼は民に、こう言った。)「アッラー*を崇拝*せよ。あなた方には、かれの外に崇拝*すべきいかなるものもないのだから。一体あなた方は(アッラー*に逆らい)畏れ*ないのか?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَقَالَ ٱلۡمَلَأُ مِن قَوۡمِهِ ٱلَّذِينَ كَفَرُواْ وَكَذَّبُواْ بِلِقَآءِ ٱلۡأٓخِرَةِ وَأَتۡرَفۡنَٰهُمۡ فِي ٱلۡحَيَوٰةِ ٱلدُّنۡيَا مَا هَٰذَآ إِلَّا بَشَرٞ مِّثۡلُكُمۡ يَأۡكُلُ مِمَّا تَأۡكُلُونَ مِنۡهُ وَيَشۡرَبُ مِمَّا تَشۡرَبُونَ
不信仰で、来世における拝謁[1]を嘘呼ばわりし、われらが現世の生活において贅沢を味わわせた、彼の民の有力者らは言った。「これは、あなた方と同様の一人の人間に過ぎない。彼は、あなた方が食べる(同じ)ものから食べ、あなた方が飲む(同じ)ものから飲んでいる。
[1] 「来世における拝謁」とは、復活と清算のこと(アル=クルトゥビー12:121参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَئِنۡ أَطَعۡتُم بَشَرٗا مِّثۡلَكُمۡ إِنَّكُمۡ إِذٗا لَّخَٰسِرُونَ
そして、もしもあなた方が自分たちと同様の人間に従うならば、そうすれば実にあなた方は、まさしく損失者となってしまうのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَيَعِدُكُمۡ أَنَّكُمۡ إِذَا مِتُّمۡ وَكُنتُمۡ تُرَابٗا وَعِظَٰمًا أَنَّكُم مُّخۡرَجُونَ
一体、彼(使徒*)は、あなた方が死んで土と骨と化した時、本当にあなた方が(再び生を与えられては墓の中から)出される者になると、あなた方に約束するのか?
Tefsiri na arapskom jeziku:
۞ هَيۡهَاتَ هَيۡهَاتَ لِمَا تُوعَدُونَ
あなた方が約束されているものは、あり得ない、あり得ないのだぞ!
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنۡ هِيَ إِلَّا حَيَاتُنَا ٱلدُّنۡيَا نَمُوتُ وَنَحۡيَا وَمَا نَحۡنُ بِمَبۡعُوثِينَ
それは、現世における私たちの生活に過ぎない[1]。私たちは死に、生き(て、世代を交代し続け)るだけ[2]。そして私たちは、蘇らされる身などではないのだ。
[1] つまり、生とは、自分たちが今いる者だけであり、あなたが約束する来世における復活の後の生などはない、ということ(アル=クルトゥビー12:124参照)。 [2] 「私たち」の先祖が死に、「私たち」の子孫が生きること(ムヤッサル344頁参照) 。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنۡ هُوَ إِلَّا رَجُلٌ ٱفۡتَرَىٰ عَلَى ٱللَّهِ كَذِبٗا وَمَا نَحۡنُ لَهُۥ بِمُؤۡمِنِينَ
彼はアッラー*に対して嘘をでっち上げた、一人の男に過ぎない。そして私たちは彼のことなど、信じないぞ」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالَ رَبِّ ٱنصُرۡنِي بِمَا كَذَّبُونِ
彼(使徒**)は、申し上げた。「我が主*よ、彼らが私を嘘つき呼ばわりしますゆえ、私をお助け下さい」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالَ عَمَّا قَلِيلٖ لَّيُصۡبِحُنَّ نَٰدِمِينَ
かれは仰せられた。「彼らは必ずやもうすぐ、後悔する者となる」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَأَخَذَتۡهُمُ ٱلصَّيۡحَةُ بِٱلۡحَقِّ فَجَعَلۡنَٰهُمۡ غُثَآءٗۚ فَبُعۡدٗا لِّلۡقَوۡمِ ٱلظَّٰلِمِينَ
(轟く)一声[1]が真理と共に[2]彼らを捕らえ、われら*は彼らを枯れ屑にした。不正*者である民に、滅亡あれ。
[1] 「(轟く)一声」については、フード*章67の訳注を参照。 [2] 「真理と共に」とは、不正*ではなく、公正さによって、という意味(アッ=サァディー551頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ أَنشَأۡنَا مِنۢ بَعۡدِهِمۡ قُرُونًا ءَاخَرِينَ
それからわれら*は、彼らの後、(また)いくつもの別の世代を設けた。
Tefsiri na arapskom jeziku:
مَا تَسۡبِقُ مِنۡ أُمَّةٍ أَجَلَهَا وَمَا يَسۡتَـٔۡخِرُونَ
いかなる共同体も、その(滅亡の)期限に先駆けることもなければ、遅れることもない。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ أَرۡسَلۡنَا رُسُلَنَا تَتۡرَاۖ كُلَّ مَا جَآءَ أُمَّةٗ رَّسُولُهَا كَذَّبُوهُۖ فَأَتۡبَعۡنَا بَعۡضَهُم بَعۡضٗا وَجَعَلۡنَٰهُمۡ أَحَادِيثَۚ فَبُعۡدٗا لِّقَوۡمٖ لَّا يُؤۡمِنُونَ
それからわれら*は、われら*の使徒*たちを続けて遣わした。ある共同体にその使徒*が到来するたび、彼ら(共同体の民)は彼(使徒*)を嘘つき呼ばわりした。それでわれら*は、彼らを次から次へと立て続けにし(て滅亡させ)、彼らを(後世へと)語り継がれるものとしたのだ。信仰しない民には、滅亡あれ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ثُمَّ أَرۡسَلۡنَا مُوسَىٰ وَأَخَاهُ هَٰرُونَ بِـَٔايَٰتِنَا وَسُلۡطَٰنٖ مُّبِينٍ
それからわれら*は、われら*の御徴[1]と紛れもなき証拠[2]と共に、ムーサー*とその兄ハールーン*を遣わした。
[1] この「御徴」については、雌牛章92「明証」の訳注を参照。 [2] この「紛れもなき証拠」については、婦人章153の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِلَىٰ فِرۡعَوۡنَ وَمَلَإِيْهِۦ فَٱسۡتَكۡبَرُواْ وَكَانُواْ قَوۡمًا عَالِينَ
フィルアウン*とその(民の)有力者に。すると彼らは、(信仰を受け入れることに対して、)奢り高ぶった。彼らはご高慢非道な民であった。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَقَالُوٓاْ أَنُؤۡمِنُ لِبَشَرَيۡنِ مِثۡلِنَا وَقَوۡمُهُمَا لَنَا عَٰبِدُونَ
また、彼ら(フィルアウン*たち)は言った。「一体私たちが、私たちと同様の二人の人間を信じるとでも?彼らの民(イスラーイールの子ら*)は、私たちの奴隷*だというのに[1]」。
[1] 雌牛章49とその訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَكَذَّبُوهُمَا فَكَانُواْ مِنَ ٱلۡمُهۡلَكِينَ
そして彼らは二人を嘘つき呼ばわりし、滅亡する者の類いとなった。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَقَدۡ ءَاتَيۡنَا مُوسَى ٱلۡكِتَٰبَ لَعَلَّهُمۡ يَهۡتَدُونَ
また、われら*は確かに、彼らが導かれるようにと、ムーサー*に啓典(トーラー*)を授けた。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَجَعَلۡنَا ٱبۡنَ مَرۡيَمَ وَأُمَّهُۥٓ ءَايَةٗ وَءَاوَيۡنَٰهُمَآ إِلَىٰ رَبۡوَةٖ ذَاتِ قَرَارٖ وَمَعِينٖ
また、われら*マルヤム*の息子(イーサー*)とその母親を、一つの御徴[1]とした。そして二人を安住と水の流れる台地に住まわせた[2]
[1] この「御徴」については、マルヤム*章21の訳注を参照。 [2] 一説にこれは、マルヤム*がイーサー*を身ごもった時、身を寄せた場所のこと(アッ=サァディー553頁参照)。 マルヤム*章22-25を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
يَٰٓأَيُّهَا ٱلرُّسُلُ كُلُواْ مِنَ ٱلطَّيِّبَٰتِ وَٱعۡمَلُواْ صَٰلِحًاۖ إِنِّي بِمَا تَعۡمَلُونَ عَلِيمٞ
使徒*たちよ、善きものの内から食べ、正しい行い*を行え[1]。本当にわれは、あなた方が行うことを知って(おり、それで報)いるのだから。
[1] 合法なものを摂取(せっしゅ)することは、正しい行い*への助力となる。一方で、非合法なものの摂取は、有害さを招く(ムヤッサル345頁参照)。そしてその害の一つが、祈りが叶(かな)えられなくなることである(ムスリム*「浄財*の書」65も参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَإِنَّ هَٰذِهِۦٓ أُمَّتُكُمۡ أُمَّةٗ وَٰحِدَةٗ وَأَنَا۠ رَبُّكُمۡ فَٱتَّقُونِ
また(預言者*たちよ)、まさにこれ(あなた方の宗教)は、一つの宗教である、あなた方の宗教(イスラーム*)。そしてわれは、あなた方の主*なのだ。ゆえに、われを畏れ*よ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَتَقَطَّعُوٓاْ أَمۡرَهُم بَيۡنَهُمۡ زُبُرٗاۖ كُلُّ حِزۡبِۭ بِمَا لَدَيۡهِمۡ فَرِحُونَ
(その後)彼ら(人々)は、自分たちの(宗教上の)事柄において、互いに派を作って分裂してしまった。各派は、自分たちのもの(宗教)に有頂天でいる[1]
[1] つまり、(イスラーム*のもとに)団結を命じられた後に分裂し、各々の宗教が真理で、他の宗教が嘘だとし、そのことに喜んでいる状態(ムヤッサル345頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَذَرۡهُمۡ فِي غَمۡرَتِهِمۡ حَتَّىٰ حِينٍ
ならば(使徒*よ、)彼らをしばらく、彼らの(迷いと無知の)奥底につかり切ったままにしておけ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَيَحۡسَبُونَ أَنَّمَا نُمِدُّهُم بِهِۦ مِن مَّالٖ وَبَنِينَ
一体彼らは、思い込んでいるのか?われら*が(現世において)彼らに増やしてやる財産や子供、
Tefsiri na arapskom jeziku:
نُسَارِعُ لَهُمۡ فِي ٱلۡخَيۡرَٰتِۚ بَل لَّا يَشۡعُرُونَ
(それらによって)われら*が彼らのため、善に急いでいると?いや、(それは彼らの試練なのだが、)彼らは気付いていないのだ。[1]
[1] 同様のアーヤ*として、イムラーン家章178、悔悟章55も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنَّ ٱلَّذِينَ هُم مِّنۡ خَشۡيَةِ رَبِّهِم مُّشۡفِقُونَ
本当に、自分たちの主*への恐れだけから、(かれの罰に)怯える者たち。[1]
[1] 彼らは善を尽くし、信仰し、正しい行い*に励みつつも、アッラー*を恐れるものたちである。アル=ハサン*は言った。「実に信仰者とは、善を尽くしつつも怯えるもの。そして実に偽信者*とは、悪行を犯しつつ安心しているものである」(イブン・カスィール5:480参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُم بِـَٔايَٰتِ رَبِّهِمۡ يُؤۡمِنُونَ
また、自分たちの主*の御徴こそ、固く信じる者たち。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ هُم بِرَبِّهِمۡ لَا يُشۡرِكُونَ
また、自分たちの主*に対し、決してシルク*を犯さない者たち。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَٱلَّذِينَ يُؤۡتُونَ مَآ ءَاتَواْ وَّقُلُوبُهُمۡ وَجِلَةٌ أَنَّهُمۡ إِلَىٰ رَبِّهِمۡ رَٰجِعُونَ
また、自分たちの主*の御許に戻る身であるがゆえに、心慄きつつ与える(べき)ものを与える者たち。[1]
[1] つまり善行に励みつつも、それが受け入れられず、復活の日*に自分の役に立たないかもしれないことを恐れる者たちのこと(ムヤッサル346頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أُوْلَٰٓئِكَ يُسَٰرِعُونَ فِي ٱلۡخَيۡرَٰتِ وَهُمۡ لَهَا سَٰبِقُونَ
それらの者たちは、我先にと、善[1]において競い合っているのだ。
[1] この「善」とは、アッラー*への服従行為、正しい行為のこと(前掲書、同頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَا نُكَلِّفُ نَفۡسًا إِلَّا وُسۡعَهَاۚ وَلَدَيۡنَا كِتَٰبٞ يَنطِقُ بِٱلۡحَقِّ وَهُمۡ لَا يُظۡلَمُونَ
また、われら*はいかなる者にも、その能力以上のものを課したりはしない。そしてわれら*の御許には、真理を語る書[1]があるのであり、彼らが不正*を被ることもない。
[1] これは天使*たちによって、しもべたちの行いが記録された帳簿のこと。一説には、守られし碑板*のこと(アル=クルトゥビー12:134参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
بَلۡ قُلُوبُهُمۡ فِي غَمۡرَةٖ مِّنۡ هَٰذَا وَلَهُمۡ أَعۡمَٰلٞ مِّن دُونِ ذَٰلِكَ هُمۡ لَهَا عَٰمِلُونَ
いや、彼らの心はこれ(クルアーン*)から、(迷いによって)すっかり覆われた状態にある。そして彼らには、その外にも、彼らが行っている(悪い)行いがあるのだ[1]
[1] つまり、シルク*以外にも悪い行いがある、という意味(ムヤッサル346頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
حَتَّىٰٓ إِذَآ أَخَذۡنَا مُتۡرَفِيهِم بِٱلۡعَذَابِ إِذَا هُمۡ يَجۡـَٔرُونَ
やがて、彼らの内の贅沢者たちをわれら*が懲罰[1]で捕えることになれば、どうであろうか、彼らは(助けを求めて)苦しみ喚く。
[1] この「懲罰」が 、バドルの戦い*での彼らの敗北だとか、あるいはマッカ*を襲った飢饉(ききん)のことであるとかいう説もある(アル=バガウィー3:369参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
لَا تَجۡـَٔرُواْ ٱلۡيَوۡمَۖ إِنَّكُم مِّنَّا لَا تُنصَرُونَ
今日、(助けを求めて)苦しみ喚くのではない。本当にあなた方は、われら*(の罰)から助けられることなどないのだから。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَدۡ كَانَتۡ ءَايَٰتِي تُتۡلَىٰ عَلَيۡكُمۡ فَكُنتُمۡ عَلَىٰٓ أَعۡقَٰبِكُمۡ تَنكِصُونَ
わが御徴(アーヤ*)は確かに、あなた方に対して読誦されていた。そしてあなた方は、踵を返して後ずさりしたのである。
Tefsiri na arapskom jeziku:
مُسۡتَكۡبِرِينَ بِهِۦ سَٰمِرٗا تَهۡجُرُونَ
それ[1]ゆえに驕り高ぶり、夜もすがら悪口に興じつつ[2]
[1] 「それ」とは、大方の学者によれば、マッカ*のクライシュ族*がその管理を携(たずさ)わっていたカァバ神殿*のこと。彼らはそのことを、鼻にかけていた。また一説には、「それ(クルアーン*)に対して驕り高ぶり・・・」という解釈もある(アル=クルトゥビー12:136参照)。 [2] 詳細にされた章26、星章59-61も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَفَلَمۡ يَدَّبَّرُواْ ٱلۡقَوۡلَ أَمۡ جَآءَهُم مَّا لَمۡ يَأۡتِ ءَابَآءَهُمُ ٱلۡأَوَّلِينَ
一体、彼らはその言葉(クルアーン*)を熟慮しないのか?いや、彼らの昔の先祖たちに訪れなかったものが、彼らのもとに到来した(ことが理由で、信じないという)のか?[1]
[1] 金の装飾章23-24も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَمۡ لَمۡ يَعۡرِفُواْ رَسُولَهُمۡ فَهُمۡ لَهُۥ مُنكِرُونَ
いや、彼らは自分たちの使徒*(ムハンマド*)を知らず、それで彼を否認するのか?[1]
[1] 実際のところ、彼らは預言者*ムハンマド*が啓示を授かる前から、彼を「誠実な人」という別称で呼ぶほど、彼の善き品性、正直さ、誠実さについて、熟知していた(アッ=サァディー554頁参照)。ユーヌス*章16の訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَمۡ يَقُولُونَ بِهِۦ جِنَّةُۢۚ بَلۡ جَآءَهُم بِٱلۡحَقِّ وَأَكۡثَرُهُمۡ لِلۡحَقِّ كَٰرِهُونَ
いや、彼らは、彼が憑かれている[1]とでも言うのか?いや、彼は彼らのもとに真理を携えてやって来たのだが、彼らの多くは真理を嫌うのである。
[1] アル=ヒジュラ章6「憑かれた者」に関する訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَوِ ٱتَّبَعَ ٱلۡحَقُّ أَهۡوَآءَهُمۡ لَفَسَدَتِ ٱلسَّمَٰوَٰتُ وَٱلۡأَرۡضُ وَمَن فِيهِنَّۚ بَلۡ أَتَيۡنَٰهُم بِذِكۡرِهِمۡ فَهُمۡ عَن ذِكۡرِهِم مُّعۡرِضُونَ
もし真理が彼らの欲望に従うようなことがあれば、諸天と大地、そこにあるものは、損なわれてしまったであろう。いや、われら*は彼らに、彼らの栄誉[1]をもたらした。そして彼らは自分たちの栄誉に対し、背を向けているのだ。
[1] 「栄誉(ズィクル)」には、彼らへの「教訓」という意味も含まれ、いずれにせよクルアーン*のことを指す。彼らがその教えを実践する限りにおいて、それは彼らにとっての栄誉となる(前掲書、同頁参照)。預言者*たち章10、金の装飾章44も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَمۡ تَسۡـَٔلُهُمۡ خَرۡجٗا فَخَرَاجُ رَبِّكَ خَيۡرٞۖ وَهُوَ خَيۡرُ ٱلرَّٰزِقِينَ
いや、(使徒*よ、)あなたは、彼らに見返りを要求[1](し、それゆえに彼らは信仰を拒否)するのか?(いや、違う、)というのも、あなたの主*の見返りの方が、より善いのだから。そしてかれは、最もよく糧を授けあれるお方なのだ。
[1] この「見返りの要求」については、ユーヌス*章72の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَإِنَّكَ لَتَدۡعُوهُمۡ إِلَىٰ صِرَٰطٖ مُّسۡتَقِيمٖ
本当にあなたは、彼らをまさに、まっすぐな道(イスラーム*)へと招いているのである。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَإِنَّ ٱلَّذِينَ لَا يُؤۡمِنُونَ بِٱلۡأٓخِرَةِ عَنِ ٱلصِّرَٰطِ لَنَٰكِبُونَ
そして本当に、来世を信じない者たちは、(正しい)道からまさに外れてしまっている者たちなのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
۞ وَلَوۡ رَحِمۡنَٰهُمۡ وَكَشَفۡنَا مَا بِهِم مِّن ضُرّٖ لَّلَجُّواْ فِي طُغۡيَٰنِهِمۡ يَعۡمَهُونَ
もし、われら*が彼らに慈悲をかけ、彼らの害を取り除いてやったら[1]、彼らは彷徨いつつ、自らのひどい放埓さに固執したであろう。
[1] 一説に、これは「地獄に入れずに現世に返してやり、(再び)試すこと」。または「旱魃(かんばつ)や飢餓(きが)」(アル=クルトゥビー12:142参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَلَقَدۡ أَخَذۡنَٰهُم بِٱلۡعَذَابِ فَمَا ٱسۡتَكَانُواْ لِرَبِّهِمۡ وَمَا يَتَضَرَّعُونَ
われら*は確かに、彼らを懲罰[1]で捕えた。そして彼らは自分たちの主*に従順になることもなかったし、おそれ畏まりもしない。
[1] この「懲罰」とは、試練としての災(わざわ)い のこと(ムヤッサル347頁参照)。一説には、マッカ*の民を苦しめた七年間の大飢饉(ききん)のこと(アン=ナサーイー11352参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
حَتَّىٰٓ إِذَا فَتَحۡنَا عَلَيۡهِم بَابٗا ذَا عَذَابٖ شَدِيدٍ إِذَا هُمۡ فِيهِ مُبۡلِسُونَ
やがて、われら*が彼らに対して厳しい懲罰[1]の扉を開ける時、どうであろう、彼らはその中で落胆する者となる。
[1] この「懲罰」は、来世での懲罰のこととされる(ムヤッサル347頁参照) 。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَهُوَ ٱلَّذِيٓ أَنشَأَ لَكُمُ ٱلسَّمۡعَ وَٱلۡأَبۡصَٰرَ وَٱلۡأَفۡـِٔدَةَۚ قَلِيلٗا مَّا تَشۡكُرُونَ
かれは、あなた方に聴覚と視覚と心を備え付けて下さったお方。あなた方が感謝することの少ないこと。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَهُوَ ٱلَّذِي ذَرَأَكُمۡ فِي ٱلۡأَرۡضِ وَإِلَيۡهِ تُحۡشَرُونَ
また、かれは、あなた方を大地に繁茂させられたお方。そしてかれの御許にこそ、あなた方は召集されるのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَهُوَ ٱلَّذِي يُحۡيِۦ وَيُمِيتُ وَلَهُ ٱخۡتِلَٰفُ ٱلَّيۡلِ وَٱلنَّهَارِۚ أَفَلَا تَعۡقِلُونَ
そして、かれは生を与えられ、死を与えられるお方。またかれにこそ、夜と昼の交代は属する。一体あなた方は、分別しないのか?
Tefsiri na arapskom jeziku:
بَلۡ قَالُواْ مِثۡلَ مَا قَالَ ٱلۡأَوَّلُونَ
いや、彼らは昔の人々が言ったのと同じようなことを言った。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالُوٓاْ أَءِذَا مِتۡنَا وَكُنَّا تُرَابٗا وَعِظَٰمًا أَءِنَّا لَمَبۡعُوثُونَ
彼らは言ったのだ。「一体、死んで土と骨と化した後で、本当に私たちが蘇らされる身であるなどというのか?
Tefsiri na arapskom jeziku:
لَقَدۡ وُعِدۡنَا نَحۡنُ وَءَابَآؤُنَا هَٰذَا مِن قَبۡلُ إِنۡ هَٰذَآ إِلَّآ أَسَٰطِيرُ ٱلۡأَوَّلِينَ
私たちと、私たちのご先祖様たちは以前、確かにこれ[1]を約束されたのである。これは昔の人々のお伽噺に外ならない」。
[1] 「これ」とは、復活のこととされる。つまり、「ご先祖様の代から、復活のことを耳にしたきたが、それはまだ起こらないではないか?」という当てこすり(アッ=サァディー557頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قُل لِّمَنِ ٱلۡأَرۡضُ وَمَن فِيهَآ إِن كُنتُمۡ تَعۡلَمُونَ
(使徒*よ、)言ってやれ。「大地と、そこにあるものは誰のものか?もし、あなた方が知っているのであれば」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
سَيَقُولُونَ لِلَّهِۚ قُلۡ أَفَلَا تَذَكَّرُونَ
彼らは言うであろう。「アッラー*のものである」。言ってやるのだ。「一体、あなた方は教訓を得ないのか?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
قُلۡ مَن رَّبُّ ٱلسَّمَٰوَٰتِ ٱلسَّبۡعِ وَرَبُّ ٱلۡعَرۡشِ ٱلۡعَظِيمِ
言ってやれ。「七層の天の主*と、偉大なる御座[1]の主*は誰か?」
[1] 「御座」については、高壁章54の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
سَيَقُولُونَ لِلَّهِۚ قُلۡ أَفَلَا تَتَّقُونَ
彼らは言うであろう。「(それらは)アッラー*のものである」。言ってやるのだ。「一体、あなた方は畏れ*ないのか?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
قُلۡ مَنۢ بِيَدِهِۦ مَلَكُوتُ كُلِّ شَيۡءٖ وَهُوَ يُجِيرُ وَلَا يُجَارُ عَلَيۡهِ إِن كُنتُمۡ تَعۡلَمُونَ
言ってやれ。「その御手に全てのものの絶対なる王権があり、そして(援助を求める者を)お助けになり、かれ(の意)に反しては(誰も)助けられることがないお方は、誰か?もし、あなた方が知っているのならば」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
سَيَقُولُونَ لِلَّهِۚ قُلۡ فَأَنَّىٰ تُسۡحَرُونَ
彼らは言うであろう。「(それらは全て、)アッラー*のものである」。言ってやるのだ。「ならば一体、あなた方はどうしてまやかされるのか?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
بَلۡ أَتَيۡنَٰهُم بِٱلۡحَقِّ وَإِنَّهُمۡ لَكَٰذِبُونَ
いや、われら*は彼らに真理をもたらした。本当に彼らはまさしく、嘘つきだったのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
مَا ٱتَّخَذَ ٱللَّهُ مِن وَلَدٖ وَمَا كَانَ مَعَهُۥ مِنۡ إِلَٰهٍۚ إِذٗا لَّذَهَبَ كُلُّ إِلَٰهِۭ بِمَا خَلَقَ وَلَعَلَا بَعۡضُهُمۡ عَلَىٰ بَعۡضٖۚ سُبۡحَٰنَ ٱللَّهِ عَمَّا يَصِفُونَ
アッラー*は御子など設けてはおられないし、かれと共にある神[1]なども一切ない。(もし)そうならば、きっと全ての神は自らが創ったものと共に(銘々に)去ってしまい、彼らは互いに君臨し(ようとし合っ)たであろう[2]。彼らの言うようなこと[3]から(無縁な)、アッラー*に称え*あれ[4]
[1] 「神」に関しては、雌牛章133の訳注を参照。 [2] 全能である真の神が二つ以上あったとしたら、世界の秩序は無茶苦茶になってしまう。しかし実際のところ、この宇宙は太古の昔から、あらゆる被造物の福利を実現しつつ、いかなる不具合や矛盾(むじゅん)もなく、驚くべき秩序を保ち続けてきた(アッ=サァディー558頁参照)。 [3] つまり、シルク*や、嘘つき呼ばわりすることなど(ムヤッサル348頁参照)。 [4] 雌牛章116の訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
عَٰلِمِ ٱلۡغَيۡبِ وَٱلشَّهَٰدَةِ فَتَعَٰلَىٰ عَمَّا يُشۡرِكُونَ
(かれは)不可視の世界*と現象界[1]をご存知になるお方で、彼らがシルク*を犯しているものから、(無縁で)高遠なお方。
[1] 「現象界」については、家畜章73の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قُل رَّبِّ إِمَّا تُرِيَنِّي مَا يُوعَدُونَ
(使徒*よ、)言うがよい。「我が主よ、もしもあなたが私に、彼らが約束されているもの[1]をまさにお見せになるとしても、
[1] 「われら*が約束しているもの」とは、懲罰のこと(ムヤッサル348頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
رَبِّ فَلَا تَجۡعَلۡنِي فِي ٱلۡقَوۡمِ ٱلظَّٰلِمِينَ
我が主*よ、私を不正*者である民の中にはおかないで下さい」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَإِنَّا عَلَىٰٓ أَن نُّرِيَكَ مَا نَعِدُهُمۡ لَقَٰدِرُونَ
本当にわれら*は、我らが彼らに約束しているものをあなたに見せることが、まさしく出来る者なのである。
Tefsiri na arapskom jeziku:
ٱدۡفَعۡ بِٱلَّتِي هِيَ أَحۡسَنُ ٱلسَّيِّئَةَۚ نَحۡنُ أَعۡلَمُ بِمَا يَصِفُونَ
悪を、より善いものでこそ押しのけよ[1]。われら*は彼らが言うこと[2]を、最もよく知っている。
[1] 同様のアーヤ*として、詳細にされた章34-35も参照。 [2] アーヤ*91「彼らが言うようなこと」の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَقُل رَّبِّ أَعُوذُ بِكَ مِنۡ هَمَزَٰتِ ٱلشَّيَٰطِينِ
また(使徒*よ)、言うがよい。「我が主*よ、私はあなたに、シャイターン*の煽り立てからのご加護を乞います。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَأَعُوذُ بِكَ رَبِّ أَن يَحۡضُرُونِ
そして我が主*よ、(何事においても、)彼ら(シャイターン*)が私のところにやって来ることからのご加護を、あなたに乞います。
Tefsiri na arapskom jeziku:
حَتَّىٰٓ إِذَا جَآءَ أَحَدَهُمُ ٱلۡمَوۡتُ قَالَ رَبِّ ٱرۡجِعُونِ
やがて、彼らの内の者[1]に死が訪れれば、彼は(こう)言う。「我が主*よ、私を(現世に)返して下さい。
[1] これは不信仰者*、あるいはアッラー*のご命令に反していいた者のこと(前掲書、同頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
لَعَلِّيٓ أَعۡمَلُ صَٰلِحٗا فِيمَا تَرَكۡتُۚ كَلَّآۚ إِنَّهَا كَلِمَةٌ هُوَ قَآئِلُهَاۖ وَمِن وَرَآئِهِم بَرۡزَخٌ إِلَىٰ يَوۡمِ يُبۡعَثُونَ
私は、自分が残して来たもの[1]において、正しい行い*をするでしょう」。断じて(、戻ることは出来)ない。本当にそれは、彼が(口先だけで)言っている、ただの言葉に過ぎないのだから。そして彼らの先には、彼らが蘇らされる日まで、障壁[2]がある。[3]
[1] 「残して 来たもの」には、シャハーダ*の言葉、施(ほどこ)すべき財産などといった解釈がある(アル=クルトゥビー12:150参照)。 [2] この「障壁(バルザフ)」とは、現世と来世の間を分ける障壁のこと。現世でアッラー*に従順であった者は、自分の死から復活の日*までの間、そこで安楽を楽しみ、反抗的であった者は、そこで罰され続ける(アッ=サァディー559頁参照)。 [3] いざ復活の日*(あるいは死)が到来すると、彼らは現世での猶予(ゆうよ)を求めたり、自分たちを現世に返してくれることを頼んだりする。だがもちろん、それは叶(かな)わない。家畜章27-28、高壁章53、イブラーヒーム*章44、アッ=サジダ*章12、創成者*章37、赦し深いお方章11-12、相談章44、偽信者*たち章10-11も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَإِذَا نُفِخَ فِي ٱلصُّورِ فَلَآ أَنسَابَ بَيۡنَهُمۡ يَوۡمَئِذٖ وَلَا يَتَسَآءَلُونَ
角笛に吹き込まれれば[1]、その日、彼らの間には血縁(の自慢)などもなければ、互いに(安否を)尋ね合うこともない。[2]
[1] 「角笛に吹き込まれる」については、家畜章73の訳注を参照。 [2] 階段章10-14、眉をひそめて章34-37も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَمَن ثَقُلَتۡ مَوَٰزِينُهُۥ فَأُوْلَٰٓئِكَ هُمُ ٱلۡمُفۡلِحُونَ
それで、その(善行の)秤が重かった者、それらの者たちこそは成功者。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَمَنۡ خَفَّتۡ مَوَٰزِينُهُۥ فَأُوْلَٰٓئِكَ ٱلَّذِينَ خَسِرُوٓاْ أَنفُسَهُمۡ فِي جَهَنَّمَ خَٰلِدُونَ
そして、その秤が軽かった者、それらの者たちは、自らを損ねた者たちであり、地獄に永遠に留まる。
Tefsiri na arapskom jeziku:
تَلۡفَحُ وُجُوهَهُمُ ٱلنَّارُ وَهُمۡ فِيهَا كَٰلِحُونَ
業火が彼らの顔を焼き焦がし、彼らはそこで(苦痛ゆえに)歯を剥き出す。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَلَمۡ تَكُنۡ ءَايَٰتِي تُتۡلَىٰ عَلَيۡكُمۡ فَكُنتُم بِهَا تُكَذِّبُونَ
(アッラー*は彼らに、こう仰せられる。)「あなた方には(現世で)、わが御徴が誦まれていたのではないのか?そしてあなた方は、それを嘘呼ばわりしていたのでは?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالُواْ رَبَّنَا غَلَبَتۡ عَلَيۡنَا شِقۡوَتُنَا وَكُنَّا قَوۡمٗا ضَآلِّينَ
彼らは申し上げる。「我らが主*よ、私たちの不幸が、私たちを制圧してしまったのです。私たちは、迷った民でした。
Tefsiri na arapskom jeziku:
رَبَّنَآ أَخۡرِجۡنَا مِنۡهَا فَإِنۡ عُدۡنَا فَإِنَّا ظَٰلِمُونَ
我らが主*よ、私たちをここから出して下さい。そしてもし、(再び迷妄へと)戻ってしまったら、本当に私たちは(真に懲罰に値する)不正*者です」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالَ ٱخۡسَـُٔواْ فِيهَا وَلَا تُكَلِّمُونِ
かれは仰せられる。「そこに、(惨めなまま)下がっていよ。そしてわれに(これ以上)、話しかけるのではない」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنَّهُۥ كَانَ فَرِيقٞ مِّنۡ عِبَادِي يَقُولُونَ رَبَّنَآ ءَامَنَّا فَٱغۡفِرۡ لَنَا وَٱرۡحَمۡنَا وَأَنتَ خَيۡرُ ٱلرَّٰحِمِينَ
本当に、わが僕たちの(信仰者の)一団は、(現世でこう)言っていたものなのだ。「我らが主*よ、私たちは信じました。ならば、私たちをお赦しになり、私たちにご慈悲をおかけ下さい。あなたは慈しみ深い者の中でも、最善のお方です」。[1]
[1] 彼らは、以下のことを結集した者たちであった:①信仰と、それが要求する正しい行い*。②主*からのお赦しと、ご慈悲の祈願。③アッラー*を主*と認めつつ、信仰というお恵みをかれから頂いたこと、及びかれの豊かなご慈悲と善を告白することを、祈願が叶(かな)えられるための一手段とすること(アッ=サァディー560頁参照)。アーヤ*57-61とその訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَٱتَّخَذۡتُمُوهُمۡ سِخۡرِيًّا حَتَّىٰٓ أَنسَوۡكُمۡ ذِكۡرِي وَكُنتُم مِّنۡهُمۡ تَضۡحَكُونَ
そしてあなた方(不信仰者*)は彼らを、あなた方にわが教訓を忘れさせるほどにまで侮蔑の的とし[1]、彼らを嘲り笑っていたのだ。
[1] 他人の侮蔑に勤しむことは、教訓を忘れることにつながる。そして教訓を忘れているがゆえに、他人の侮蔑(ぶべつ)に勤(いそ)しむのである(前掲書、同頁参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
إِنِّي جَزَيۡتُهُمُ ٱلۡيَوۡمَ بِمَا صَبَرُوٓاْ أَنَّهُمۡ هُمُ ٱلۡفَآئِزُونَ
本当にわれはこの日、彼らが(現世で)忍耐*していたことゆえに、彼らこそを成功者とすることで、彼らに報いてやるのだ。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَٰلَ كَمۡ لَبِثۡتُمۡ فِي ٱلۡأَرۡضِ عَدَدَ سِنِينَ
かれ(アッラー*)は、(地獄の民に)仰せられる。「あなた方は地上で、何年間過ごしたのか?」[1]
[1] 食卓章109の、復活の日*における質問についての訳注も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَالُواْ لَبِثۡنَا يَوۡمًا أَوۡ بَعۡضَ يَوۡمٖ فَسۡـَٔلِ ٱلۡعَآدِّينَ
彼らは(応えて)申し上げる。「一日か、一日足らずを、過ごしました。ならば、数える者たち[1]にお尋ねください」。
[1] 「数える者たち」とは、計算に長じた者たち、あるいは人の行いを記録し、数える天使*たちのこと(アル=クルトゥビー12:156参照)。
Tefsiri na arapskom jeziku:
قَٰلَ إِن لَّبِثۡتُمۡ إِلَّا قَلِيلٗاۖ لَّوۡ أَنَّكُمۡ كُنتُمۡ تَعۡلَمُونَ
かれは仰せられる。「あなた方は(現世で)、僅かばかりしか過ごしてはいなかった。もし、あなた方が知っていたならば[1][2]
[1] 現世が短いことを知っていたら、来世よりも現世を優先させることなく、自分たちの益となることを行い、損となるようなことは行わなかっただろう、ということ(アッ=シャルビーニー2:467参照)。 [2] 同様のアーヤ*として、ユーヌス*章45、ター・ハー章103、ビサンチン章55、砂丘章35、引き離すもの章46も参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
أَفَحَسِبۡتُمۡ أَنَّمَا خَلَقۡنَٰكُمۡ عَبَثٗا وَأَنَّكُمۡ إِلَيۡنَا لَا تُرۡجَعُونَ
一体あなた方は、われら*があなた方を無意味に創造したと、そしてあなた方が(清算と報いのため)われら*の御許へと戻らされないとでも、思っていたのか?」
Tefsiri na arapskom jeziku:
فَتَعَٰلَى ٱللَّهُ ٱلۡمَلِكُ ٱلۡحَقُّۖ لَآ إِلَٰهَ إِلَّا هُوَ رَبُّ ٱلۡعَرۡشِ ٱلۡكَرِيمِ
王であり、真理であられるアッラー*は、(そのような無意味な行いから)高遠なお方。貴い御座[1]の主*、かれの外に(真に)崇拝*すべきものはない。
[1] 「御座」については、高壁章54の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَمَن يَدۡعُ مَعَ ٱللَّهِ إِلَٰهًا ءَاخَرَ لَا بُرۡهَٰنَ لَهُۥ بِهِۦ فَإِنَّمَا حِسَابُهُۥ عِندَ رَبِّهِۦٓۚ إِنَّهُۥ لَا يُفۡلِحُ ٱلۡكَٰفِرُونَ
誰であろうと、アッラー*に並べて別の神[1]を祈る者ーー彼にはそれ(を祈る正当性)において、いかなる根拠もないのだがーー、その清算は、その主*の御許にこそある。本当に不信仰者*らは、成功することがない。
[1] 「神」に関しては、雌牛章133の訳注を参照。
Tefsiri na arapskom jeziku:
وَقُل رَّبِّ ٱغۡفِرۡ وَٱرۡحَمۡ وَأَنتَ خَيۡرُ ٱلرَّٰحِمِينَ
(預言者*よ、)言うのだ。「我が主*よ、お赦しになり、ご慈悲をおかけ下さい。そしてあなたは、慈しみ深い者の中でも最善のお方です」。
Tefsiri na arapskom jeziku:
 
Prijevod značenja Sura: Sura el-Mu'minun
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Prijevod značenja časnog Kur'ana - الترجمة اليابانية - سعيد ساتو - Sadržaj prijevodā

ترجمة معاني القرآن الكريم إلى اللغة اليابانية، ترجمها سعيد ساتو، طبعة عام 1440هـ.

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